2  高齢者の生活の基本的な保障は、年金などの社会保障制度によるものである。これを家族愛だの道徳だの、という制度的な枠組みとは別の人間の心情レベルに依存させようという方向が日本では一貫して見られた。しかし親の面倒をみたいという子の心情はもちろん肯定的に評価できるとしても、そうした心情を当てにしないところで、制度は権利を保障するものとして存在していなくてはならない。

 しかしその上で課題がある。それは高齢者が自活するという目標に必要なものの中身である。第一に生活保障、第二に仕事の可能性であろう。後者は本人が望めば自分にあった仕事を少しでもやれる範囲でやる、という仕組みの実現となる。これが実現できれば、年々負担が重くなる年金制度をいくらかでも救うことができるはずである。

 しかし日本の現実はいづれもひどいものである。年金による生活保障はきわめて不十分であって年金だけで生活できる人は少ない。特に夫婦でなく単身者はきついのが現状だ。そうなると少しでも働いて生活の足しにしようということになるが、今の日本ではなかなかそうはいかないのである。年齢による雇用制限が一般的であって、よほど特殊な技能職でないかぎり、満足の行くような仕事にはありつけない。60歳まではある程度の企業で管理職をやっていたという人が退職後に就ける仕事は自給700円の工場のパートしかない、というのはかなり一般的にいえることである。これでは高齢者の自立は困難になる。現代、高齢者の自立不可能性が大きな問題として厳しく取り上げられないのは、今までのところ、子供などの家族との共同生活があるからなんとかなっているだけである。年金水準が次第に下がる、家族がさらに小さいものになる、子供が未婚のまま老齢を迎えるなどに事態が進行していけば、この問題は巨大なものとして前面に出ることになろう。

 もちろん年金保障の充実はまず実現すべきことである。そのための負担は国民全体が税で分かつという体制が意識の上でも作られねばならない。自活できない人間がいて何の権利、自由な発言が存在するというのか。年金財政の厳しさが増している現代では年金を抑える方向ばかりが論議されがちであるが、あいかわらず正論を主張すべきである。国民レベルでの合意はまだ図られていない。麻生政権はいつの間にか「中福祉中負担」国家が国民的合意の方向であるかのような発言を繰り返していたが、これは全くいかさまであった。しかしそれだけではない。働くという問題がこれに加わってくる。