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わが人生の断片

2008年から気ままに思うままに少しずつ書き連ねることにする (1)玉野の海と初めてのコーヒーの味   昭和35年 小学6年 我が家は夏に岡山の玉野市に引越しをした。僕は初めて、生まれ故郷から離れることになった。僕は小学6年生であった。久しぶりに親子5人が揃って暮らし始めることになった。父は長年この玉野で単身赴任していたのである。三井造船での仕事も落ち着いてきたのか、広島にいた、母親(僕には祖母)、妻、2人の子どもを呼んだのである。しかしまず入居したのは新しくできた市営住宅であった。社宅に入ったのは一年近くたってからであった。 近くの精錬所の出すガスで禿げてしまった山の南面に立つこの住宅は全部で20棟くらいあり、一棟に2軒の家が壁を接して対称形になって入っており、6畳と4畳半の畳部屋と3畳くらいの台所とトイレ、わずかばかりの廊下からなっていた。今から考えると夫婦で一部屋、それと襖一枚で接したもう一部屋におばあちゃんと子ども2人(兄貴は高校生になっていた)という貧しい住宅環境であったが、僕は特別不自由を感じなかった。みんなで暮らせることに満足していたし、この住宅が山のやや中腹にたっていたので、景色が良かった。小さな縁側から南から西にかけて小さな港、その先に瀬戸内海、島が見えたし、東にも見える海には宇高連絡船が姿を見せた。夜にはこの連絡船は赤、青など彩り豊かなライトをともして航行するので、東の視野のなかで通過する何分かは華やいだ見世物になった。  この時代には冷蔵庫は氷を入れて使うものであった。電気冷蔵庫の登場の直前である。氷屋が毎日配達してくれる氷で中を冷やす仕組みであったから、いつも氷が手に入った。学校から帰って縁側に座って夕暮れの海を眺めながら、小さく砕いてもらった氷をがりがりと口の中で転がしたものであった。大小様々な島を浮かべる瀬戸内海はこの時期(わずか一年と8ケ月であったが)に僕のふるさとになっていたのだと思う。 夜、ときどきうれしいことが起こった。居間(テレビがある、両親の部屋)の真中で父がコーヒーを点てるのであった。夕食もとっくに終わり、テレビを見ている合間だったと思う。布袋にコーヒーの挽いた豆を入れしっかり閉じて、電気湯沸しポットの中で煮出すのである。砂糖を入れて飲んだこのコーヒーはいつまでも僕の味覚に残っている(僕の記憶では緑の缶、MJBコ