筆者の個人史

(1)1967年
早稲田の下宿①
 大学の一年生の秋に念願の下宿生活を開始した。家庭教師を1件やりながら生活する、という条件で母は折れた、と記憶する。早稲田の裏側にある都電の早稲田駅を越えてさらに北に進むと神田川があり、それを渡ったとこにある古くからある、ぽつぽつと商店があるような住宅街と商店街のあいのこといった街にある、2階建ての、おでん屋の経営する素人下宿であった。2階の3間が下宿用で僕は最初の入居者としてベランダのある南向きの6畳間に入った。2食付で14800円であった。大學の生協でカレーが40から50円の時代である。経営者は旦那が20代後半の遊び人風のお兄さんとその愛人といった様子であった。お兄さんは下宿、おでん屋の経営に乗り出した、家屋敷の相続人、つまり親から一軒の家を相続し商売にのりだしたといった感じである。おかみさんは東北弁らしきなまりのある色白の、しもぶくれした、ちょっと間のぬけたような顔をした、まあ、かわいい女性。やはり20代後半か。
 大學から10分の距離だから仲間は来やすかったのであろう。1週間毎晩合計7人の来訪者があったときにはさすがに辟易した。自分が千葉の実家に帰っている間にかってに来て泊まって行く者もいた。ソーミのように彼女を連れてきて,飲み慣れない3人が酔っ払いベランダで吐きまくり、3人で1枚の布団で寝たこともある。オーナーは若い遊び人だから誰が来て泊まろうが気にかけないし、友人が来たときしばしば下からおでんやお銚子をとったものである。彼女が来たとき暗くなって送りに出たときオーナーとたまたま顔を会わすと「あれ、泊まっていかないの」。
 コタツと本とコーヒーやお茶用の電気ポットやカップが部屋にあるもののほとんどであった。本をできるだけ読もうとした。レーニンやマルクスなどのマルクス主義ものは当然であったが、いわゆる世界の古典的大思想も少し齧りたかった。キエルケゴールやヤスパースなど分けもわからないままノートをとりつつ読んだ。シモーヌ・ヴィーユがはやりだしたころであり、彼女の作品も齧った。近代経済学はほとんど読まなかった。授業のテキストとしてテスト対策としてのみ読んだ。サミュエルソンの国民所得論などである。小説も同様であった。つまり教養主義的であった。なぜかジイドやマルローなどはほとんど読んだ。すべて早稲田界隈の古本屋で調達した安い古本で。
 下宿の立っている通りには高いビルなどなく、古くからある2階建ての住宅が軒を連ねところどころに雑貨屋、食料品店、銭湯などがあった。銭湯はまだ陽のあるうちに明るい湯船でゆったりするのが快適で、いつもいい気分にしてくれた。神田川は小さいどぶ川でしかなく、こうせつの歌でしかもずっと後になってなんとなく想い返される有様であった。
 夜遅く来てはいつも議論を吹っかけるクラスメート。彼は柔軟ではあるが議論がうまくていつもやられた。しかしよく千円貸してくれた。こいつは今小児科医だ。浪人のくせに成就されることのない恋愛にうつつをぬかしていた男は今は大会社の役員候補だ。小説家志望で我が下宿に居候してひたすら自閉症的な、ためにする小説を書いていた男は今どうしているのだろうか。彼が売れっ子作家になった形跡はない。彼は中学時代、同級で抜群の秀才であったが、中学時代に「世界文学」にはやばやと目覚めて以来受験勉強は馬鹿らしくなったようでなかなか大學に入らなかったが、やがて立教に入ったとこまでは知っている。
 納豆に出会ったのはおそらくこの下宿であったろうが、ほとんど手を出さなかったと想う。関東育ちでない自分には納豆は無縁であった。遅く帰宅して店のカウンターでおでんで飯をかっ込んだ記憶がある。最初下宿人は僕だけであったが、やがてもう二人早稲田の学生が入った。オーナーカップルはわれわれを何回か飲みに連れ出してくれた。新宿のスナックのようなところだった。オーナーは自分のことを明治中退だといっていたが、小柄でスポーツカットをした浅黒い顔のこの男はどうみてもそんなレベルには見えなかった。(2007年3月6日)
 この下宿から大学までどてらを羽織り下駄ばきで走ったことがある。2月の試験期で、朝一番の試験に遅れたのである。気がつくと9時過ぎであった。試験開始から30分過ぎるともう試験は放棄されたとみなすという規則があり、なんとしても9時半までにキャンパスの、確か法学部の建物まで入らねばならない。着替えも洗面もできないままコタツのそばに脱ぎ捨ててあったどてらを着て、その上で靴とはいかなかったのであろう、げたを履いて早稲田の街を走ったのである。しかしこうした格好が奇異ではないのが早稲田である。誰も振り返りもしない。あまり学生の歩いていないキャンパスの中でたてた、からんころんという音が耳に残っている。担当の教師も、9時半手前で、そうしたいでたちでハアハア言いながら入室してきた学生に驚くこともなかった。どてらはコタツ以外に暖房器具がない下宿ではきわめて便利なものであった。これ以後いつも下宿ではどてらを愛用したものである。

下宿 2
 下宿生活をはじめて覚えたことのひとつが質屋である。金がなくなると時々利用した。流した質草もあった。大学生になったのだから、といっておふくろに買ってもらった大きな英和辞典。後になるが、フラメンコギタ^-も何回か入れた。確か5千円くらいであった。健全な貸し金である質屋に頼れないときに金を借りたことがあり、印象に残っているのが、中学の同級生yである。彼は同級の中でトップクラスにいたが不幸にも千葉高に落ちた。ここには僕を含めて4人中学から受験したが予想外にも彼が落ちたのである。千葉高しか受験しなかったので、彼は急遽しがない私立に入ったのであり、自然と付き合いが薄れてしまった。しかしなぜか大学生になって金に困ると彼の顔が浮かんだのである。かれは中央の文学部に入っていた。わが下宿で居候しようとしていた、小説家の卵と諮って彼に電話をしたのであった。5千円。いとも簡単に貸してくれた。その承諾の簡単なことは意外であった。そのころのほとんどなかった付き合いからして。こうして借り出すのは恐ろしく容易だった。しかし返金するのは簡単ではない。約束の期限をこえて知らん顔していたら手紙が来た。実にあっさりしていた。きちんと約束どおり返さねば親元に出向いて始末してもらう、というものであり、それ以外なんのメッセージもなかった。実に効果的である。当然こちらはあわてて金を工面して返済した。yは僕よりはるかに大人であったのだ。彼は中学時代同学年で指導的な立場にある、えらくおちゃめな男であった。あるときなど担任の先生のいるところで突然黒板の前にでて伴奏を口ずさみながらサル踊りを始めたことがあった。皆仰天、そして大爆笑、先生苦笑であった。彼に比べれば僕は気の小さい、勉強家でしかなかったろう。
 この早稲田の下宿は長続きしなかった。翌年の5月には出た。自分が千葉に帰っているときに友人がとまりに来て、たまたま僕にかかってきた電話に出たらしいのである。これをオーナーは見咎めて僕は説教された。そんなにきつい言い方ではなかったが、これ以上ここにいないほうがいいな、と感じた。しかし他方で自分の中にそろそろ別のところに移りたいという気持ちが芽生えていたように思う。あまりにもひんぱんに人が来るようになっていたから。しかしあとから振り返ると、これ以後のいくつかの下宿のなかでここはきわめていいものであったことは間違いない。
 このあと練馬の田舎、市川の街中というふうに何回か下宿を試みたが、なにせ家賃の高いところには無縁なものだから、良い、落ち着ける部屋にはありつけなかった。2,3千円の部屋をねらった。梅雨時いつもぼっとん便所の臭気の漂う部屋、おしいれが部屋面積の半分を占め畳は2畳しかなく天井近くに小さな明り取りしかない、監獄のような部屋。そこで高橋和己やその周辺をむさぼり読んだ。大學にはあまり顔を出さなかった。しかし落ち着けず、結局2年生の夏には下宿をやめた。3年の後半に小平市の長野県人寮にゼミで知り合った仲間の紹介で入り込むまで実家に帰り、そこから大學に必要最低限出かけた。(07年3.8)

(2)社会弁証法研究会加入から中核派シンパへ  1967年
 大層な名前の研究会である。しかしなんのことはない。政経学部を中心とする中核派の囲い込み研究会であった。ぼくは1年のときクラス委員になったから、文学部などからも盛んにオルグにきた。当然革マル系だが、あまり人間的に惹かれる学生はいなかった。反帝反スタという旗頭のもとで一体中核と革マルがどのようにことなるのか、よく分からなかったし、また本質的に興味のあることでもなかった。反帝反スタは正しい、しかしそれ以上の2派のいきさつや違いより、学生運動や社会主義運動を魅力的に語れる人を無意識に求めていたのだと思う。
 政経学部は社青同解放派が支配党派であったが、縁ができたのは中核派であった。彼らは政経学部のみならず早稲田全体で少数派であったが、政経学部のメンバーを中心として法学部や教育学部などのメンバーもいた。法学部にはTという、当時自称6年生のベテラン運動家がおり、彼はホキ徳田の弟であるとのことだった。彼の高田馬場駅近くのアパートにいって聞かされた彼の古い実家の話はおもしろいものであったし、彼がパクられた時の刑事とのやりとりなどの彼の話は爆笑するほどのネタがあり、また彼の年齢の割にはえらく好青年ぽくみえる細身の顔に浮かべる笑いは好感できるものであった。またキャンパスそばの決まった喫茶店で延々と中核がいかに正しいかを力説したKやTも単に学生運動に狂った、ためにする運動家ではなかった。彼らには先輩として魅力があったのである。とくに1年だけ先輩の学生Tとは親しく付き合った。党派に入ることへのためらいを彼も共有しており、素直にそうしたことを話し合った。彼の彼女へのラブコールはすさまじいもので、僕には到底まねのできないところであった。入院しているところにテントを持ち込んで気持ちをアピールしたというのである。
 こうして僕はなんとなく中核派のシンパとなった。社弁研の勉強会に出たり、デモに彼らの後からくっついて行ったりした。東京郊外の田舎の宿で研究合宿に付き合ったこともある。毛沢東やレーニンの作品を勉強した。こうした勉強こそ大学に進んでしたかったことなのだ、と固く信じていた。
 試練はすばやくやってきた。10.8である。この前には、あわただしく会合が全都レベルや全国レベルであり、中核派の全国的拠点である法政大学に詰め掛けることもあった。闘争形態が一新するはずの10.8はなんとしても出かけなければならない、それは学生運動の新しい段階となるはずであり、自分にとっての最初の大きな課題となるものであった。直前の晩法政で中核と解放派が小競り合いをした。殴り合いが演じられた。みんな気分はハイになっていたはずだ。エスペラントの老人が佐藤訪米への抗議の自殺をした。このニュースは集まっていた学生たちの、やり抜かねば、という思いに火をつけることに役立った。中核派の居場所は政経学部の建物の地下にあった。解放派の部屋と接していた。その地下室にデモに必要なものがあり、それをとりにいく役目が僕に回ってきた。法政での一件があるのでメンバーは行きにくい。僕なら単なるシンパだから解放派に見つかってもたいした問題にはならないだろう、という判断である。僕はさすがに緊張したが、それほど深刻には考えなかったのだと思う。一番奥の部屋に入り必要なものをもって出て隣の部屋の前を通り過ぎようとしたら待った、がかかった。解放派のメンバーがたくさん詰め掛けていて見逃してもらえなかった。部屋に連れ込まれた。頭領クラスの、いつもアジをやる4年生が僕を詰問した。法政での出来事をきちんと弁解せよというものであったが、僕に中核と解放の、いさかいにつながる違いを中核の論理で弁証できるはずもなかった。僕は黙るほかなかった。相手は僕のめがねをはずした。覚悟した。そのとき、同じ学年の、解放派シンパの知り合いが出てきて、「まあ、まあ」と言いながら頭領を抑えた。屈辱的であった。解放されてまっすぐに下宿に帰った。法政には行かなかった。明日の羽田は俺とは関係ない、とふてくされて恥辱にまみれて寝た。起きてパチンコ屋に行った。羽田のニュースをそこで聞いた。京大の山崎という中核派の学生が死んだ。さらに打ちのめされた。俺が彼のようになっていた可能性はゼロではない。
 その後心優しき先輩たちに説得され、僕は早稲田の中核派の第2次羽田闘争に向けての活動に加わった。今度は前回のだらしない日和を挽回すべく主体的に取り組もう、と心に誓った。解放派との確執のため大學に入れなかったので、総勢10人前後で高田馬場駅近くの喫茶店を根城にしてビラ作戦など展開した。第一次羽田が日本学生運動史上初めてのゲバルト戦であり、死者がでたことが火付け薬になって、第2次羽田はさらに過激なデモになりそうであった。「新しい学生、青年労働者の戦闘的戦い」に自分もくわわるのだ、という思いが、多少のびびりを感じ、パクられたらどう親に対応したらよいか逡巡する自分を前に駆り立てた。
 11.12、第2次羽田闘争。前日東大駒場寮に集結した。全国の大学から集結した学生で寮の内外はごったがえしていた。決起集会や段取りやらで長い夜はほとんど寝られなかった。
明けて国電で大森(?)駅にむかった。そこの駅前で集会をし、いよいよデモを始めた。ヘルメット、ゲバ棒のいでたちである。3000から4000人の学生部隊が待ち受ける機動隊とぶつかるのである。広い道路いっぱいになって進む。前方に機動隊がネットを持って待ち受ける。突進する。僕は先頭の旗持ちたちと同じ位置にいた。決して逃げてはならぬという決意であった。旗の棒やゲバ棒がネット越しに機動隊のヘルメットを襲う。かぱかぱ、という音。学生たちの奇声。機動隊の指揮官の、学生を諌め、また隊員を鼓舞する怒号。数百の機動隊では学生のパワーに押される。青服集団はじりじりと後退。僕の目の前で指揮官が溝にはまり、ひっくり返り、一人取り残された。50から60歳くらいだ。やられるかな、と心配したが、そうした一人の警官をいたぶるようなまねをするものはいなかった。このあと数年後であったらそうはいかなかったかもしれない。この正面からの出会い、ぶつかり合いを合図にこの地域はあちこちで学生と機動隊が小競り合いを繰り返した。これは、広島にいたころ秋の祭りで赤鬼、青鬼が街に繰り出し囃し立てる子供たちをあちこちで追い回し、一種興奮状態が作り出された様子を思い出させるところがあった。
知っている仲間もばらばらで、適当に近くにいる見知らぬ連中と隊列を組み、シュプレヒコールを繰り返しながら、デモる、という形態。先輩のkさんと一緒になった。そこでは道路は学生たちで一杯だった。この通りを救急車がサイレンを鳴らしながら通り抜けようとした。kさんはその車が我々の目の前を通り過ぎようとするとき、手にもっていたゲバ棒をフロントガラスに叩きつけた。ガラスは粉々にはならなかったが、ひびがはいったようであった。救急隊員も命がけであったろう。そのまま去っていった。kさんは鼻歌でも歌っているかのような、いくらか笑みを浮かべたような平然とした顔でそうしたのである。ショックであった。相手は救急隊である。そうした暴力行為は下品である。普段、快活で冗談好きで穏やかなkさんには似つかわしくない行為であった。デモのおり時折見られる運動家たちの自分勝手な一般市民への思い上がった狼藉は、僕に「我々戦闘的革命的学生は労働者と連帯し、...」というアピールを馬鹿馬鹿しいものに感じさせたのであった。
またこうしたあちこちでの一種鬼ごっこ的状況では注意すべきことは上空を警戒することであった。機動隊からの投石である。歩道の石やコンクリを割ったものが投石に使われた。もちろん最初は学生がそうしたのであるが、混乱した市街戦的状況下では機動隊も投げることがあったのだ。数千いる彼らもばらばらになっており、指揮系統は乱れていたのだ。僕が隊列を組んでデモっていたときすぐ隣の学生は顔に投石を受けてしまった。空に注意を向けるなどとは思いもよらなかったのだ。出血がひどかった。
佐藤訪米阻止という「目標」は達成できなかった。そもそも羽田に近づくこともできなかったのだから。しかし機動隊を一時的ではあれ、「撃退」したのだ。つまり機動隊の腕力で完全に押さえつけられる、公認の屈辱的なデモではなく、「国家権力と対等に戦い、デモを貫徹した」のだから、学生運動の新しい一歩が刻まれた、というべきだ、というトーンで駅前の総括集会は締めくくられたと記憶する。これはあとから考えると学生の振るう暴力が際限なく恐ろしいものになっていく出発点になっている、ということであろう。山崎君の犠牲は踏まえられることはなかったのである。(07 3月31日)

(3)広島の夏の海   1950年代後半
船越町は海に直接面してはいなかった。瀬野川が広島湾に注ぐ、最下流が我々子供の水遊び場であった。そうした最下流の瀬野川に船越川が注ぐあたりにはカキの養殖場があり、川縁にカキの身を取り出す作業小屋がいくつもあった。当然川に下りるとカキの貝殻の破片だらけであった。これで足など切るとえらく出血したものである。6月になると気の早い,泳ぎの達者なものが水に入った。カキで足を切らないよう用心して。カキひびが川の中にあった。夏だからそこにはのりが付着して緑の棚になっていたような記憶がある。夏休みに入ると川岸に父兄が陣取って子供たちが浅瀬で騒ぐ光景が繰り広げられた。塩水といってもまだ川の範囲であるから波の心配はなく手軽な海水浴場といったところだ。しかし触ることは危険なカキひびがあり、また浚渫したところは急に深くなっており、藻が深かったので怖い場所であった。死者もでた。
本格的な海水浴場は古屋浦など呉線に乗って出かけなければならなかった。こちらの方面は夏の臨海学校でよく行った。すぐに船で渡れる島には事欠かなかったのでそうした島や呉線沿線の町で何日か過ごした。小3、4のときの担任、頭が坊主であった50くらいの先生、杉田先生は長いふんどしで海に出ておられた、という記憶がある。
比較的に安全な海水浴の場は瀬野川を渡る国鉄の鉄橋の下あたりであった。夏の太陽を受けて、橋脚のふもとのいくらか深いところは明るい緑色になり、僕らはそこに嬉々として身を置いたのである。プールなどというものはなかった時代である。子供はいくらかでも安全に水遊びできるところを見つけたのである。(07 4 1)
(4)船越小学校 3,4年生  1957,58年  
広島での小学校時代の記憶は1,2年生時代に関してはあまりない。3,4年生時代はあるのだ。杉田先生が担任であった。彼は何か罰を与えるとき(例えば宿題を忘れた場合)は教室の前のほうの窓際に置かれた自分の机の前でキセルで生徒の頭をぽこんと軽く殴るのである。服装もカーキ色の軍服のような上下を着ていたような記憶がある。僕はこの時代、社会科に目覚めた。いわゆる社会科学に関心を持ち始める、いわば第一歩であったのかもしれない。自分の生活圏を越えたより広い世界への興味に目覚め、面白くなったのである。恐らく4年生になってからのことだろう。社会科は学習範囲を広げ、広島県全体に及ぶ。広島県の鉄道地図などが範囲になっていく。何々線はどこからどこまで、というようなことが興味の対象になった。父兄参観日にこうしたことを得意になって「発表」したものであった。主要4科目でオール5をとったのもこの時期であり、初めてのことであった. たしか僕は絵(図工)は1年生のときからできていたが、いわゆる主要教科でははじめてだった。
時々先生に命じられて、授業中に学校に近い郵便局(あるいは農協であったかもしれない)にクラスのみんなのお金を貯金に行った。おそらく定期的に集められるものであった。灰色の大きな布製の袋に入った硬貨を持っていくのだが、その郵便局の薄暗い土間、年季の入った黒ずんだカウンターや袋を受け取り、金額をカードか何かに記帳してくれる地味な(紺色か)制服じみた服装の事務のおばさんや学校全体が授業中で誰一人校舎の周りにいない、ひっそりした裏門などがぼやっとした記憶の底にある。一度、お金の入った袋を水溜りの中に落としてしまい、ずいぶん消耗したことを覚えているが、どのようにそれを乗り切ったのかまったく記憶にない。しかしいわゆる「優等生」であったのは一学期だけであった。確か2学期には5の数は減っていたはずだ。
この先生は相撲が好きであった。冬には校庭に設定された土俵で男子に相撲を取らせ、横綱だ、小結だ、前頭何前目だ、とランク付けした。僕は痩せで中くらいの背丈であったから、どんなに頑張っても小結くらいだったが、得意技は外掛けであり、相撲は嫌いではなかった。当時大相撲をテレビ観戦していた。三根山というあんこ型の、前頭にいる相撲取りが好きでいつも静かに応援していた。近くのテレビのある家で見せてもらうのである。(確か我が家にテレビが来るのは僕が小学校4年か5年のときであった。)あるとき三根山が巨体の朝潮を首投げで負かしたことがある。高潮しながらその家から狭い路地を通って帰宅したのがなんとなく記憶にある。なぜ三根山なのか。彼は顔はいつも泣きそうな、あまりぱっとしない様子であった。しかもあんこ型でかっこもよくない。理由は同情、ということだったかもしれない。
冬の寒さもピークを迎えるころ学校で相撲大会があった。僕は休んだ。相撲自体はいやではなかったが、パンツ一枚の格好になるのがいやだったのだ。そうした格好で帯を巻いて取るのである。女の子を意識していたのであろうと思う。痩せでしかも胸が引っ込んでいるので格好が悪い、という思いからである。コンプレックスがあったのだ。(07 4    

3)大學3年  再び下宿生活へ
2年から3年に掛けては家から大學に通った。3年になりゼミが始まり、そこで親しくなった長野県出身のゼミ生が長野県人寮に入れてくれる、という。通常の下宿は費用がかかって仕方がないが、そこなら格安に入れる。小平市であった。武蔵野の静かな学園都市のイメージもあって、乗り気になった。秋のことであった。中学時代の友人Yにレンタカ
―を運転してもらって本や布団を寮まで運んだ。またまた一人住まいがしたくなっていたのである。とにかくまず家をでる。寮にいつまでもいるつもりはない。一人部屋がほしい。とりあえず寮に住むことで次のステップを探る、そんな見込みであった。2人部屋で相棒はちょっと変わり者の大男であった。昔は秀才といわれたらしいが、なにか病気をし、いま平凡な大學に通っている。頭の中の大事な部分が抜けているという感じである。夜中にどうも漏らすらしく、部屋はよくおしっこのにおいがしていた。かれのベットのしたには車のホイールキャップがたくさん置かれていた。どうやら拾ってくるようであった。売れる、という見込みでもってくるようであった。心配したよりは温厚な男であり、よく話をした後、ニヤーとした。あまり部屋に籠もっているタイプでなかったので、一人で静かに音楽を聴いたり、本を読んだりすることができた。たしか朝、夜の食事つきで4千円くらいであった。格安なのだが、あまりその食堂で食事をした記憶がない。飯の量は十分であったような記憶はあるが、かたい、冷えている、おかずもなんとかついている、という程度のものであったようだ。寮生と近くの銭湯に行き、ラーメン屋でしょうゆラーメンを楽しんだ。早稲田以外の大学生とも親しくなった。僕はこのころ梯経済哲学にはまり込み始めていた。勉強したがっていた。秋の柔らかな日差しの中、窓を開け放して紅葉しかかった武蔵野の木々を目にするのは気持ちが良かった。自衛隊の駐屯地があり、広いグランドで彼らの運動する様子も見えたが、大きなイチョウの並木が気分をやわらげてくれた。
 入所してすぐ息子のギターの家庭教師をしてくれという要請を受け、家に出入りするようになり、その後長い付き合いとなった谷田家は近くであった。中学生の息子にクラシックギターの基本を教えてくれ、という要請が寮にあり、僕がギターを弾くということが知れ渡っていたので僕に話しが回ってきたのであった。人に教えたことはないが、カルカッシのギター教本の基本部分を使って運指の基本を教えながら、合奏することでギターに馴染んでもらえばいい、という考えではじめた。