わが人生の断片

2008年から気ままに思うままに少しずつ書き連ねることにする

(1)玉野の海と初めてのコーヒーの味   昭和35年 小学6年
我が家は夏に岡山の玉野市に引越しをした。僕は初めて、生まれ故郷から離れることになった。僕は小学6年生であった。久しぶりに親子5人が揃って暮らし始めることになった。父は長年この玉野で単身赴任していたのである。三井造船での仕事も落ち着いてきたのか、広島にいた、母親(僕には祖母)、妻、2人の子どもを呼んだのである。しかしまず入居したのは新しくできた市営住宅であった。社宅に入ったのは一年近くたってからであった。
近くの精錬所の出すガスで禿げてしまった山の南面に立つこの住宅は全部で20棟くらいあり、一棟に2軒の家が壁を接して対称形になって入っており、6畳と4畳半の畳部屋と3畳くらいの台所とトイレ、わずかばかりの廊下からなっていた。今から考えると夫婦で一部屋、それと襖一枚で接したもう一部屋におばあちゃんと子ども2人(兄貴は高校生になっていた)という貧しい住宅環境であったが、僕は特別不自由を感じなかった。みんなで暮らせることに満足していたし、この住宅が山のやや中腹にたっていたので、景色が良かった。小さな縁側から南から西にかけて小さな港、その先に瀬戸内海、島が見えたし、東にも見える海には宇高連絡船が姿を見せた。夜にはこの連絡船は赤、青など彩り豊かなライトをともして航行するので、東の視野のなかで通過する何分かは華やいだ見世物になった。 
この時代には冷蔵庫は氷を入れて使うものであった。電気冷蔵庫の登場の直前である。氷屋が毎日配達してくれる氷で中を冷やす仕組みであったから、いつも氷が手に入った。学校から帰って縁側に座って夕暮れの海を眺めながら、小さく砕いてもらった氷をがりがりと口の中で転がしたものであった。大小様々な島を浮かべる瀬戸内海はこの時期(わずか一年と8ケ月であったが)に僕のふるさとになっていたのだと思う。
夜、ときどきうれしいことが起こった。居間(テレビがある、両親の部屋)の真中で父がコーヒーを点てるのであった。夕食もとっくに終わり、テレビを見ている合間だったと思う。布袋にコーヒーの挽いた豆を入れしっかり閉じて、電気湯沸しポットの中で煮出すのである。砂糖を入れて飲んだこのコーヒーはいつまでも僕の味覚に残っている(僕の記憶では緑の缶、MJBコーヒーであったようだ)。ちょっぴり苦いけど砂糖がそれをうまく打ち消してくれた。コーヒーはそれまでも「コーヒー牛乳」という形で飲んではいたが、コーヒーとしてはおそらく初めてであったろう。甘さのなかにある苦味をともなうコクは子どもの僕にも魅力的であった。
しかしおばあさんから小学生の僕にいたる5人の家族がコーヒーを真中にして円陣を組んでひとときを過ごした、というのはなにかこの時期を象徴することであったようだ。家族で一種「ゆとり」を楽しむ、ということがやっと可能になったのである。時代もそうしたことを可能にしうる状況にあり(戦後の混乱期を抜け出て高度成長期にはいる直前、「所得倍増計画」の年)、また我が家の歴史も新たな段階にあった(父がサラリーマンとして「安定した会社」に腰を落ち着けたということ)。
なにを話しながらコーヒーを楽しんだのだろうか。普段寡黙な父はコーヒー作りの役だけを担い、母がもっぱら話しのネタを提供していたのだろうか。

(2)大学という新しい世界       昭和42年  18歳
早稲田の入学式には出なかった。しかし入学時のキャンパスの喧騒には身を置いた。本部のキャンパス、大隈講堂前からドンズマリの校舎までありとあらゆるサークルが新入生を勧誘する活動を繰り広げている。僕はそうした学生の中に奥浩平のイメージしか求めなかったので、あるサークルの勧誘の人並みの中で話の流れから自分の父親が三井造船のサラリーマンであると言ったとき、その場に居合わせた学生が、いいなアという反応をしたとき、軽蔑の念しか覚えなかったのを記憶している。奥浩平はそうした学生とは根本的に世界が違う。彼は弁証法について語り、革命を説き、革命的恋愛論を展開してくれるはずだ。まるでスフインクスの謎かけのごとく大上段に議論をふっかけてくる者。やたらと難しそうな課題をしょっていそうな研究会。僕はそれらの中を歩きながらひたすら「奥浩平」を求めていた。

(3)塩田のおわり  昭和35年
玉野の小学校6年。仲間と一緒に学校から帰るのは塩田の中をとおる近道であった。高さ5,6メートルの笹で覆われたやぐらがいくつもいくつも整然とならんだ塩田。そうしたやぐらは小さな砂利を敷き詰めた、海辺の広々とした場所にあった。それは透明な水が流れる幅20センチくらいの水路によって区切られていた。そうした塩田が廃止になる時期であった。だから近道に塩田を通り抜けたのである。また時々、そこでソフトをやったりもした。おそらく水路はやぐらで濃縮した後の海水が流れていたものであろうが、その水のながれの清らかさは敷き詰められた子砂利の小奇麗さと重なっていつまでも記憶の隅に生き続けている。やがてやぐらはぼろぼろになっていくのであった。それがきれいに撤去されたのを目にしたかどうか確かではない。

(4)早稲田の下宿  昭和42年
 大學1年目の9月、念願の下宿生活を始めた。千葉の家から早稲田まで2時間以上かかった。1時限目の授業はそう何日もなかったであろうが、また勤勉にどの授業も出席するような生活をしていたわけではないが、たしかに通学はひと仕事であった。それ以上に一人住まいをしたくてしようがなかったのだ。政経学部の事務所あたりの下宿案内でまかない付きの部屋を見つけた。14800円で2食付の部屋である。親にとっては大きな負担である。しかし甘えた。家庭教師のバイトをして小遣いは得た。週2回6千円くらいであったか。場所がよかった。キャンパスから歩いて10分の距離にある。キャンパスから北へ向かい都電の早稲田の駅のそばを抜けて神田川を越えた地域で、古くからあるようなくすんだ商店と住宅が混在している町であった。おでん屋である。一階が店と経営者の若夫婦の居間や台所があり、2階が4部屋くらいあり、僕は日当たりのいい南向きの6畳の間に入った。二間続きの部屋だったので実質12畳を占拠することになった。使われていない部屋はいわば緩衝地帯であり、自分の部屋での物音は下や北側の部屋には届きにくかったので、気楽な生活ができた。
若旦那は30前の痩せたスポーツ刈りをした遊び人風の男で、自称、明治大學中退で女房とおでん屋兼下宿屋でのんびり食っているという様子であった。おかみさんはぷっくりとした体をした25,6の色白の、ちょっとはすっぱな感じの、目が二重になったり一重になったりする愛嬌のある顔をした北東北出身(訛りがあって間違いない)の人であった。どうやらバーかキャバレーで旦那が見つけたようであった。同棲中なのか夫婦なのかはよくわからなかった。朝、夜の食事は店のカウンターでするのである。あまり食事の中身は覚えていないが、朝納豆がでて閉口したこと(関東人ではないので納豆を食べる習慣はまったくなかった)、夜はおでんがよく出たこと(このころあまり好きではなかった)だけは記憶にある。夜更かしし、朝はろくに食べなかったであろうし、夜もおとなしく下宿でしかるべき時間に夕食をするという生活をしていたわけではなかったので、しょっちゅう下宿での食事は抜いたであろう。
店は車が何とか往来できるくらいの通りにあった。風呂屋、酒屋、米屋、パンや菓子を売る食料品店などが2階建ての一般住宅と混在していた。まだ明るい時間に風呂屋の大きな湯船に浸かっていると年寄りがぼつぼつ入っているくらいであった。明かり取りから入って繰る陽の光のなかで揺らめく湯気に包まれて、見知らぬ年寄りと挨拶程度の雑談を交わすのも初めての経験であったが、心地よいものであった。千葉の新興のアパート群からなる団地で中学、高校と過ごした僕には懐かしいような街であった。広島で育った街に似ていた。下宿から西の方向に少し歩くと、住宅が途切れ、ちょっとした丘があり、ギター好きの友人と何回か夜中にギターを持っていってかき鳴らしたこともあった。
大學から近いし、部屋への出入りは自由であったので、よく人が来た。1週間7日立て続けに、一人づつ違った人間がやってきたこともあった。いわゆるオルグにやってくる先輩たちもこれに入っている。一度は中学時代の友人で小説家志望の浪人生Eが身の回り品を持って、そして原稿用紙だけはたくさん持ってころがりこんできた。金はほとんどもっていない。僕が出かけているとき一心に原稿を埋めているのである。僕にとってはなんの興味もそそられない、文章表現そのものに意を注いだ「純文学」を目指しているようであったが、夜な夜な習作をよみきかされ、相槌を求められるのはたいへんであった。彼は中学時代トップクラスのできる子であったが、3年のときに世界文学に目覚めてそれに没頭した男である。彼の家に遊びに行ったとき、本棚にずらりと並んだ文学全集に驚いたことがあった。だから成績も下がって僕と同じ千葉高校には行かず、2番手の船橋の高校に行った。高校時代にますます文学青年になったようだ。浪人していても受験勉強はどうでもいい様子であった。二人とも金が無くなり、中学時代の共通の知人に連絡して金を借りたこともあった。5千円くらいであったか。きわめてあっさりと金は借りられたが、こうした金は返すのが簡単ではなかった。約束の期限がきてもほっておくと、手紙が来て、直ちに僕のお袋のところに行って事情を話し、返してもらう、というきわめてきっぱりした内容であった。あわてて質屋に行ったりして金を工面して返した。彼は大人だな、と妙に感心したのを記憶している。
来訪者と一緒に部屋で酒を飲むこともあったが、下がおでん屋であったから、頼めば酒はすぐに上に上がってくるのである。SがK子をつれて泊まったときは、飲めもしない酒を飲んで3人で大騒ぎをし、真夜中に窓の下にあった物干し台に吐く、などという醜態も演じた。3人で一つの布団で寝た、しかも僕は当然Sと背中合わせで寝たのだから夜中に気持ちが悪くなって吐いたのも無理は無い。若夫婦は鷹揚でそんなことも責めたりしなかったし、旦那は僕の彼女が遊びに来て夕方送っていくところを見られたとき、あれ、泊まっていかないのか、というくらいであった。2回くらい彼らに連れられて新宿の飲み屋にも行った。「奥さん」は飲めたのである。僕の少し後、早稲田の法学部の学生が北側の2つの部屋に入り、下宿生は3人になっていた。
部屋には、電気炬燵が机の代わりになったので、わずかな茶器と小さな本棚だけしかなかった。日当たりがよかったので、南向きにコタツに足を入れて本を読んだり書き物をしたりして過ごすのは快適であった。大學で講義される経済学はほとんどまじめに読まなかった。マル経、マルクス、レーニンの著作こそノートを取りながらじっくり読む対象であった。哲学もわけも分からないながら古本屋で買ってきてはすこしづつ読んだ。シモーニュ・ベーユが読まれ始めたころであった。彼女の本は買っては売り、また買う、ということをくりかえした。キエルケゴールなど読んでわかったふりをしたこともあった。天井に豊満な女のヌードのグラビア写真を貼ったこともあった。浪人中のYが遊びに来たとき、コタツにあしを入れてねっころがった時にこれに気づいた。私よりも豊満?、という意味のことを言って笑った。彼女はしばらくそこで昼寝をした。このころは、女を相手にしているという気持ちを彼女に対してはほとんど抱いていなかったから、医学部に向けて頑張れ、という叱咤激励を繰り返すだけであった。
夜更かし、朝寝の習慣はこのころにつき始めた。しかし年に2回の試験期間はそうはいかない。2月ある日、英語の1教科の試験が1時限目にあった。目覚ましをセットしたつもりであったが、朝ふと気がつくと9時過ぎている。語学は落としたくなかった。したくを丁寧にしている時間はなかった。脱ぎ散らかした服を適当に身につけ、どてらを羽織り、玄関においてあった下駄をつっかけ、キャンパスに向けて走った。試験時間が始まっていて学生の姿もまばらなキャンパスに下駄の、から、ころという音が響いた。30分以上遅刻したらもう入室はできない。9時半ちょっと前に机に着けたのを記憶している。

(5)昭和42~44年「社会弁証法研究会」の人々
徳さんは一種の名物男であった。法学部の「6年」生くらいであった。長い間早稲田の学生として学生運動に「献身」してきた。数少ない早稲田の中核派のなかで、持ち前のとぼけたチャラクターで人の関係をとりまとめるような人であった。我々一年生にとっても気安く付き合える大先輩であった。高田馬場駅に近い彼の安アパートで彼の雑談を聞くのは面白かった。彼の姉がホキ徳田であるというのはちょっと驚きでそのことから彼により関心を持ったのかもしれない。馴染みとなった警官とのやりとりなど、彼は天性のユーモアで、近づく「闘争」のもたらす緊張感をやわらげてくれた。
小松さんは信州から出てきた、筋金入りの闘士であった。いつも薄汚れた白の綿パンを穿き、ひげの剃りあとが濃い、なかなかの男ぶりのよい政経学部の3年生(僕が1年生のとき)であった。確か浪人していたから年齢は3,4歳うえであった。同じ3年の神尾さんが彼のところに連れて行ってやる、ということで高円寺のスナックに行ったことがあった。僕はたしか3年生になっていたはずだ。そのころはもう中核の活動にはかかわっていなかったから、何かの拍子に神尾さんと連絡をとり、一緒に行くことになったのであろう。スナックは小さな、カウンターだけの、たいした作りでもない店で、可愛い20代後半の女性が切り盛りしていた。ここで生まれてはじめてなめこ汁をご馳走になったのを記憶している。その後彼女と小松さんが同棲しているアパートに行き、久しぶりに小松さんに会った。彼は、おー、よう来たといって僕の頭をかるく叩き、なんとも暖かい笑顔で迎え入れてくれた。かなり長い間捕まっていた後であった、と思う。この時であったか、彼が革マルに対する怨嗟を激しく表現したのは。朝起きて2人で喫茶店に行ったが、彼は本を持ち込んでいた。レーニンの組織論ではなかったか。しっかり理論を整理しなきゃいかん、と彼は闘志をみなぎらせている様であった。
神尾さんも政経学部生であった。小松さんとはかなり対照的で、軟派型であり、かついざというとき大胆な男であった。父親が大阪の県警のえらいさんだったようで、自分のやっていることと父親の職業の軋轢に苦しむ一面もあった。彼は僕が1年のときよく僕をオルグしようとして話し込んだものだ。3年のとき、自分の知っている男が四谷でスペイン料理店をやっているが、そこでフラメンコギターを演奏しないか、という話を持ち込んできた。二つ返事で受けて、さっそく店に行き、何曲か弾いたら、やってくれということでまとまった。30分弾いて500円、休憩30分、また演奏、ということで店に顔を出すようになった。当時喫茶店のボーイのバイトで時間給100円プラスアルファであったから、結構な仕事であった。30分間の休憩は店のカウンターでコーヒーを飲みながら過ごした。やってみたいことであったので満足であった。しかし金はちっとも残らなかった。仕事が終わる時間になると、神尾さんがやってきて新宿へ飲みに行こう、となるのである。
ある時には歌舞伎町のロシア料理店に連れていかれた。カウンターで店の、品のいい美人ママにどうやら彼はぞっこんのようであった。彼の要請でギターを弾く羽目にもなった。ママ相手に彼はきわどい話をしていたが、途中でなんと隣にいた初老の紳士が彼女の父親であることがわかって彼の恐縮するさまは傑作であった。彼女の妹、歌手KTと寝たなどとも言っていたのであるから。僕はKTがどんな歌手かはほとんど知らなかった。東大でそれなりに運動にシンパシーを持っている進んだ女性という程度であった。こうしてお金は残るはずも無かった。
高須という一年先輩の政経学部生がいた。中核派の同盟員になっていたかどうかは忘れたが、年齢が近いせいもあって親しくした。少し粘着質な気質がある人で恋愛に対しても僕からすると考えられないような行為をしている。惚れた彼女の入院する病院の前にテントを張って寝泊りし、頑張れと声援を送ったというのだ。しかしそれほどごりごりでない、シンパともいうべき柔軟さ(あるいはええ加減さ)を彼はもっていて、そのせいかよく話し込んだ相手であった。最後に話をしたのは新宿の大きな薄暗い喫茶店であったのを記憶している。僕が2年生、か3年生であったろう。
これらの人はその後全くあったり連絡したりしていない。生きているのかどうかも分からない。同じ1年生で政経学部生であった島村は、千葉大医学部に入りなおして精神科医になっている、という話を早稲田を出てやはり医者になった鈴木基司から聞いたのが、唯一消息が分かっている、当時の仲間である。彼の北千住の実家に泊めてもらったとき、社会党国会議員であったおやじさんに会ったのを覚えている。えらく打ち解けたいでたちで、ぶくぶくした体の、ただのおっさん、という感じを受けたのを覚えている。
羽田闘争の前には、つまり1年生時代には勉強会をきちんとやっている。たしか夏であったが、かれらと東京近郊の民宿で勉強会をやったことがあった。レーニンの国家論や毛沢東の戦術戦略論をまじめに読み合わせをやった。運動と学習がまだ重なっていて希望があった時期なのだ。

(6)昭和42年 デモに出始めた頃
最初は文学部の革マル主導のデモに付き合った。早稲田のキャンパスを出てすぐにジグザグデモになった。道路は通行しにくくなる。苛立ったタクシーが突っ切ろうとした。するとデモの指揮者たちが、タクシーに詰め寄り罵声を浴びせ車体を蹴った。ショックであった。「我々は労働者大衆と連帯し...」と今叫んだばかりではなかったか。後で僕をそのデモに誘った革マルのオルグにそのことに対する疑問をぶつけた。彼はばつが悪そうに、それはよくないよね、というばかりであった。それ以降、デモでそうした大上段のシュプレヒコールを叫ぶとき、いつも半分恥ずかしさを払いのけることができなかった。しかし隣でがっちり僕と腕を組んでいる見知らぬ学生には強い連帯感を感じてもいたのだ。

(7)昭和44年~46年 電撃的出会いと幻想の終わり
 3年生になってゼミが始まった。成績の悪い学生はどこのゼミもいれてはくれないということであったが(政経学部ではゼミは必修というわけではなかった)、僕は政経学部でマル経がらみの勉強ができそうな唯一のゼミ、堀江ゼミに入りたかった。ここも成績が問題になるということであったが、俺は優だけを目当てにごまかしの勉強をして優の数をそろえてきた学生なんぞとは違って、自分なりに問題意識をもって勉強してきたのだ、という自負だけで面接に臨んだ。教授は、面白い、君のような生徒もいるとよい、という柔軟な対応をしてくれて、ゼミに入れることになった。堀江先生にマル経についての問題意識を持っていることをアピールした成果であったろう。ゼミにはどう見ても問題意識を持って本を読んできたような学生は見当たらなかった。ただ一人、旧制高校の学生風の読書をしている男がいた。浅見である。けったいな大阪弁丸出しのこの男とは友人付き合いを始めることになる。
彼の下宿に行って驚く。カント全集や三木清などの「古典」が揃っている。しかも話してみるといくらか読んでいるのである。運動などには無縁であったが、「古典的な」教養志向があったのだ。こういうタイプの学生には初めて出会ったのである。
 このゼミでは自由に気楽に活動した。夏には僕の行きつけの飯山の学生村で何泊かの「勉強会」を率先して実施したり、自治会でガリ版を借りて、夢中になり始めていた梯明秀の経済哲学の受け売りのレポートを刷って発表したりした。また4年次には大学内でゼミ活動ができない状況があったので(封鎖されていた)、僕の行きつけの高田馬場の喫茶アインで集まりを持ったものである。6月には皆で安保反対のデモに参加したりした。アインでのゼミの集まりで、僕は当然ゼミでデモに参加しようと訴えたのだが、予想外にも、このデモに参加しないと一生、押入れで暮らさないといけないようになる、と発言したしたのはまじめなノンポリ学生であった。僕はいささか驚いた。戦争直後の無頼派の発言が彼の脳裏にあったのかもしれないが、そうした発言をノンポリ学生にさせるような時代の空気があったのだ。
 堀江先生を相手に報告もした。経済学は商品論から入らねばならない、とマル経の基本を受け売りした。当時宇野経済学も読んでいたので、強気で受け売りをした。先生は本気で怒り、経済学なんてどこから初めていいのだ、と声を荒げた。正直な人であった。皆で先生の自宅へ遊びに行ったりもした。玄関先にも本が積み上げてあり、通された居間も本で埋まっていた。学者の家はこんなものか、と大いに刺激された。
早稲田の古本屋をいつものようにぶらぶら冷かして歩いている時、文献堂の本棚で偶然手にしたのが梯明秀との出会いであった。「私の経済哲学への歩み」という小さな本であった。活字がむっくり起き上がってくる、という言い方は開高健特有の言い方だったかどうか知らないが、まさにそうした経験であった。吸い込まれたのだ。これこそ俺の求めていた学問だ、と。大学院に進んで彼の目指した先を追及したい、と思い始めたのはこのころであった。彼に導かれて田辺元の哲学にも入り込んだ。これには苦労もあったが、刺激的な読書であった。3年の秋であったか。梯の著作すべてを時間をかけて読み、関連の本も参考にしながら膨大なノートが出来上がった。彼の最後の大著「経済哲学原理」を読み終わったのは、大学院1年次の秋、名古屋の昭和区の下宿であった。夜中しんと静まり返った4畳半の下宿のコタツで読み終わった瞬間、がらがらと音を立てて崩れていくのを実感した。梯幻想が。存在論としての経済哲学は空中楼閣でしかなかった、という空虚な思い。この大著を征服すれば巨大な人間の根源的な存在のありようが明らかにされるという期待が無に帰した瞬間。膨大なノート以外に何も残らなかった。思想史研究に方向転換をしたのはこのときだ。水田ゼミは思想史研究の学徒のあつまりであった。僕が始めて、(かつこうした方面での報告は一回限りとなったが)、梯明秀の、物質の哲学的概念についてのレポートをして、ゼミ生が面食らった顔をしたのも無理は無かった。この秋の時点で僕は研究生活から足を洗っておけばよかったのではないか、とも思う。僕の、熱い問題意識は消えていたのであろうから。学問でめしを食うという生活のために思想史を専攻するということに結果論としてはなったのである。修士論文で若きヘーゲルについてまとめるということが当面の目標になったのであった。そしてそれを留年することなくまとめ博士課程にストレートに進むこと、これが目標になった。

 (8)昭和37年 勉強のできる子に
  僕は中学1年まで決して勉強のよくできる子ではなかった。小学生のときは4年のときにどういうわけか頑張ろうという欲をだして主要教科オール5をとったことがあったが、それ以外のときは通知表は5から3まで適当に並ぶ程度であった(図工は得意であった)。中学になっても同じで好きだった数学と社会は10か9(岡山の中学は10段階評価であった)であったが、それ以外は真ん中くらいであった。英語も5か6であった。転換点は父親の千葉への転勤に伴う引越しであった。2年次から市原の団地に新設された中学校に入った。それは全国各地から、コンビナートの形成にともなう各社の市原工場の建設によってできたばかりの団地に呼び寄せられた子供の集まりであった。最初は団地の近くの昔使われていた小さな学校に仮住まいの新設中学であった。1学年1クラス40人くらいのスタートであったと思う。(少しづつ人数はふえて3年のときには2クラス60~70人くらいになった。)僕は新たな環境下でちょっと勉強してみようと思った。学校の規模が小さいのと新設ということでクラスや先生がアットホームな感じがあったのだと思う。英語や理科というそれまでどうでもよかった教科もきちんと勉強を始めたのだ。英語は本屋であんちょこを買ったのを覚えている。人に見られないか、ひやひやしながら買い込んだ。それを参考にしながら勉強した。1年生のときにはよく分からなかった英語がよく分かるのである。簡単なのである。テストで高得点がとれる。さらに気分よく勉強する。秋に始めてクラスで1番になった。主要教科はオール5になった。僕は、勉強ができる子になったのである。加藤先生にかわいがってもらったせいもある。しかし何と言っても心機一転、勉強を心がける気になったことが大きい。
 しかし根本的には僕に上昇志向があったからこうした変化がうまれたのだと思う。この中学に入ってすぐ、クラスの子が5,6人先生に呼ばれて職員室に入って行ったことがあった。皆できそうな子ばかりであった。どうやら先生たちに中学1年生のときの成績からしてこの新しい中学で皆を引っ張っていく頑張りをしてほしい、という期待をかけられた様子であった。当然僕はお呼びでなかった。疎外感を感じた。それが勉強のばねになった。彼らの中には岡山で僕も在籍していた10クラスもあるような大きな中学でトップの成績をとっていた子もいた。僕のおやじと同じ三井造船の社員として岡山からこの千葉に転勤してきた連中の子供たちであった。中2の終わりのテストも1番の成績であった。この調子で行くと千葉高に一定のレベルで入れるであろうと言われた。転勤のおかげで、いわゆる「できる子」になったのである。


(9)ごり 昭和30年代前半
広島の海田にいたころのシーンで今でも鮮明に記憶している1つは、家の近くの花都川(川幅4,5メーターの小さな川で山手から流れて大きな川(確か瀬野川という名前だったような気がする)に合流し、すぐに海に出て行く)での光景である。昼間、道路から川の中に入り、水がたまってあまり流れになっていない場所をいつものように覗いた。そこは数10センチくらいの高さの段の、いわば滝つぼのような溜まり場であった。ときどきそこにごりがいるのである。その日、そっと近づくと、陽を受けて薄い黄緑がかった、数10センチくらいの深みのなかに5センチくらいのごりが一匹いたのである。嬉しくてそっとそのごりに手を伸ばした場面がなぜか記憶に鮮明に残っている。薄緑色の、揺らめく水のなかの、黒っぽい愛嬌のあるごり。やった!という高揚感と色彩感がいつまでも残っている。
瀬野川で泳ぐこともあった。花都川と合流する手前に国鉄のコンクリートの橋脚があり、そのあたりが水遊びの場所であったが、ここでも陽を受けた薄い黄緑の豊かな、緩やかな
水の流れが記憶にはっきりと残っている。

(10)新宿 昭和42年
新宿の夜を初めて経験したのは、恐らく大学1年のとき、同じクラスの武井とキャバレーに乗り込んだことであった。コンパの流れであったか、馬場で飲んで、勢いがついて新宿まで出たのだ。大きな店であった。気がついたら舞台で締まった体をした30歳くらいの女がストリップをしていた(生まれてはじめてなので鼻血が出そうであった)こととフルーツの大皿が出ていたことが記憶されている。下駄で行ったのではなかったか。武井は早稲田の学帽をしていたかもしれない。勘定したら金が足りない。店頭に出ているセット料金の罠である。我々は良いカモである。ホステスにとっては朝飯前の簡単な商売であったろう。武井が腕時計を置いていったのを覚えている。
早稲田の下宿から陽が落ちると新宿の明かりが見えるのである。それに誘われるように歌舞伎町に出かけていく。とはいっても格別やることもない。猥雑な街の人ごみの中をうろうろし、深夜喫茶で女の子に声を掛けようかどうか、どきどきし結局たいした行動もできずしゅんとなって帰るだけである。遊びに来た友人を誘って行ったりもした。
当時10円寿司というのができた。間口半間くらいのうなぎの寝床のようなカウンターだけの商売でいつも客でごったがえしていた。マグロなどかざしてみると向こうが透けて見えるほどの薄さ、小ささであったが、それでも寿司屋で自分の好きなものを注文して食う、というのは高揚するような満足感があった。混雑しすぎていてゆっくり食べられるという状況ではなかったが。歌舞伎町ではこうした新たな(そしてすぐ消えていく)商売が次々と見られるようであった。ここでは最終電車になる時間に近づくと、駅に吸い込まれるのではなく逆に不夜城の街に出て行く人が増えていく、というのが面白くて仕方がなかった。そしてヒッピーという、薄汚れたジーパンをはいた長髪族がそこいらで夜中うろうろするようになった。

(11)マイカー時代の到来 昭和40~42年
40年か41年ころ車が我が家に来た。兄貴が買ったのである。ブルーバードである。大學に入っても僕は車など全く興味はなかったが、同級生はいち早く車に馴染んだようだ。中学の同級生が突然、ドライブに行こう、と言って新車に乗ってきた。カローラという車だった(たぶんこれがカローラの初代であったろう)。彼は高校を出て就職していたが、すぐに車をローンでかったのである。確か40万円くらいだったと思う。気の遠くなる金額だが、月給が1万5千円、2万円くらいの若者が無理をすれば買える様になりつつあったのだ。近所の中学の同級生も車を乗り回していた。スバル360のポンコツ車であったと思う。団地の空き地で運転させてもらった。なんどやってもクラッチがうまくつなげなかった。ガクッ、ガクッ、となるのである。こんなものには俺は縁はない、と改めて感じただけであった。
僕が免許を取ったのは、稲沢の県営住宅時代の1978年3月に名大助手を辞めて塾でバイトしながらほそぼそと研究生活することになった時期であった。年金保険料の一定の返金で金を得て免許取得にまわしたのである。守山区の知人の塾やあかつき学園に通うのにほしくなったのである。尾西の自動車学校に通った。例にもれず、高飛車な教員もいたが、なんとか大金を費やさずに通過できた。すぐにあかつきの横井先生に紹介してもらって、日産のチェリー1000ccの中古を手に入れた。総額25万円くらいかかった。助手時代に貯めたいくらかのお金でまかなったのである。7月、車が届けられた日に信清が団地まで来てくれた。助手席で僕の運転の指南である。初めての道での、初めての車の運転。団地の周りをあちこち走りながら、彼にさまざまなことを注意してもらった。あくる日から数日間、目がじっと開けていられないほど痛んだ。空前絶後の経験であった。極度の緊張で目が参ったのである。それにしてブレーキもない助手席でなんども肝をつぶすような目にあったであろうが、文句もいわず付き合ってくれた信清の太っ腹には感謝したものである。

(12)連合赤軍への情念(昭和43年)
 「竹野君は若年寄だよ」、千葉駅近くの喫茶店で森は笑みを浮かべながら言った。僕が運動から身を引いていることを批判していったのだ。彼は北朝鮮から武器が大阪経由で入り、武装蜂起の準備ができつつあることを落ち着いて語った。決して関西弁でまくしたてるというようなものではなかった。時期は、僕が早稲田での活動参加をやめ、千葉で成田空港反対の「市民」運動(ある面で運動をやっているぞというアリバイ作りのようなものであった)をやった後であったろう。赤軍に共鳴していた野村が僕に彼を引き合わせたのだ。僕はそうした闘争方式や思想にあまり興味を持たなくなっていた。棍棒とヘルメットの羽田闘争方式の限界を超えてより本格的な武装闘争を、というスローガンには共鳴できなかったし、そもそも学生運動そのものに距離を置くようになっていた時期である。ゲバルトは必然的にレベルアップしていく、そうなれば血で血を洗うようにならざるを得ない、しかしそうした闘争を行っていく社会的な地盤は見出せない、つまり革命の土台はない(確かにアメリカのベトナム戦争は泥沼化しつつあった。しかしこの事態と革命をうまく結びつけることはできなかった。日本は高度成長を驀進していたのである。しかし根本的には社会主義というものがどういうものか現実的に身近に捉えられなかったからだ、と思う。それが主張する平等ならば、日本で、遅々たるものであれ、また不完全であれ、現実的になっている。極度の貧困を目にすることはそうあるわけではない、という感覚。民主主義なら、不完全であれ、日本で多少なりとも、行われつつある、という思い。社会主義の基本的なありよう、その哲学的な概念こそ、僕が梯に求めようとしたものであったと思う。)、という思いであったろう。この穏やかな語りをする(内容はえらく急進的な武装蜂起論者のものであったが)森がやがて連合赤軍のトップとして登場することになるとは想像もつかなかった。彼は刑務所で自らの手で首をくくることになるのだが、彼の当時の穏やかさと彼が連合赤軍で行った「総括」などの一連の行動の激しさを繋ぐものは何だったか。それは孤立であったと思う。大衆的地盤がなかった、だから突出してインパクトを与え、支持を得よう、となったのだと思う。僕らの冷ややかな目がかれらを突っ走らせた、という側面があったことは否めない、と思う。つまり、その方針は間違っている、今はそれとは違う方針がいるということを逆に納得させえなかった、ということでもある。つまりあの悲劇は我々世代の共同責任で、ある程度、あったといわざるをえないのだ。だから我々は出来事が明るみに出たとき、大変な衝撃を受けたのである。

(13)社会主義思想との出会い(昭和40年~42年)
高校1年時、クラスにはいろいろ変わった連中がいた。その中に学校の勉強はあまりしていないようだが、やけに本、しかも難しそうな本をいつも読んでいる男がいた。飄々とした、サッカー部員であった。あるとき彼が読んでいるのが「資本論」というものであることが分かった。マルクスについては、社会主義思想家として、教科書レベルの知識しか持ち合わせていなかったが、なんだかえらく知的に進んだ探求のように感じられた。このころから左古純一郎などの「いかに生きるべきか」的な本は読むようになっていたが、まだ左翼思想は遠くのものであった。そのうち社会主義案内のようなものを手にするようになったのだ。40年はベトナム戦争がアメリカの北爆開始によって大きく泥沼化して言った年であった。連日苛烈な戦争の惨禍が報道されていた。「アメリカ帝国主義」への反感、社会主義への共感はきわめて単純な、入りやすい感情的なスタンスであったろう。大學でマルクスをとことん勉強したい、という思いは受験期にはきわめて大きくなっていた。一刻でも早く大学生になり、自由に勉強したい、という思いは受験期に奥公平の「青春の墓標」をきわめて興奮しながら読んだことで決定的になった。浪人なんぞ全く念頭に無かった。京大文学部で西田幾多郎の伝統の元にある哲学(的雰囲気を味わいたい)を、という憧れは強かったが、浪人までしてというほどのものではなかった、彼の「善の研究」はそういう気にはしてくれたものの、それほど強いものではなかった、ということだ。

(14)1972~82年
72年の4月に結婚、昭和区の、3畳の台所、3畳と6畳の畳部屋、トイレというアパートで始まった。うれしい出発であった。わくわくした。とはいっても9月にはなほこが生まれるので、二人だけの新婚の生活をゆっくり楽しむ、ということはそうなかった。なた、修士論文を書き上げ、博士課程にストレートで合格しなければならない。浪人すると奨学金が出ないからである。なほこが無事生まれ、博士課程に入れ、しばらくして稲沢の新築県営住宅に入居できた。ここで8年くらい暮らすことになった。
この8年は今思い返すと、幸せな、穏やかな日々であった。80年から河合塾の仕事をするようになるまでは、院生時代はバイトと奨学金で、76年から78年までの経済学部助手時代は給与で、その後バイト(塾と家庭教師)でくらした。助手時代を除くと、貧乏であった。しかし女房がそんなことを全く意に返さない人間であったこと、自らの意思で貧乏生活をしていること(やがてどこかの大學で食えるようになるであろうという思い)から、貧乏その日暮らしであっても、惨めさはまったくなかった。博之が生まれ、最後にゆうこ、と家族がだんだんとふくらみ、賑やかになり、5人の個性が一つの輪を作ってその輪が次第に大きなものになる。子供たちをべたべたするほど可愛がることは無かった。これはのちの大きな内心の悔いになっているが。そうする余裕がなかった。バイトと勉強が中心の生活。