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海津ギター同好会・2016

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2016年3月のコンサートの一部です。

名古屋市でのコンサート

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海津ギター同好会・コンサート2014

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2014年、成長した海津ギター同好会の演奏です。  

海津ギター同好会・2011

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わが人生の断片

2008年から気ままに思うままに少しずつ書き連ねることにする (1)玉野の海と初めてのコーヒーの味   昭和35年 小学6年 我が家は夏に岡山の玉野市に引越しをした。僕は初めて、生まれ故郷から離れることになった。僕は小学6年生であった。久しぶりに親子5人が揃って暮らし始めることになった。父は長年この玉野で単身赴任していたのである。三井造船での仕事も落ち着いてきたのか、広島にいた、母親(僕には祖母)、妻、2人の子どもを呼んだのである。しかしまず入居したのは新しくできた市営住宅であった。社宅に入ったのは一年近くたってからであった。 近くの精錬所の出すガスで禿げてしまった山の南面に立つこの住宅は全部で20棟くらいあり、一棟に2軒の家が壁を接して対称形になって入っており、6畳と4畳半の畳部屋と3畳くらいの台所とトイレ、わずかばかりの廊下からなっていた。今から考えると夫婦で一部屋、それと襖一枚で接したもう一部屋におばあちゃんと子ども2人(兄貴は高校生になっていた)という貧しい住宅環境であったが、僕は特別不自由を感じなかった。みんなで暮らせることに満足していたし、この住宅が山のやや中腹にたっていたので、景色が良かった。小さな縁側から南から西にかけて小さな港、その先に瀬戸内海、島が見えたし、東にも見える海には宇高連絡船が姿を見せた。夜にはこの連絡船は赤、青など彩り豊かなライトをともして航行するので、東の視野のなかで通過する何分かは華やいだ見世物になった。  この時代には冷蔵庫は氷を入れて使うものであった。電気冷蔵庫の登場の直前である。氷屋が毎日配達してくれる氷で中を冷やす仕組みであったから、いつも氷が手に入った。学校から帰って縁側に座って夕暮れの海を眺めながら、小さく砕いてもらった氷をがりがりと口の中で転がしたものであった。大小様々な島を浮かべる瀬戸内海はこの時期(わずか一年と8ケ月であったが)に僕のふるさとになっていたのだと思う。 夜、ときどきうれしいことが起こった。居間(テレビがある、両親の部屋)の真中で父がコーヒーを点てるのであった。夕食もとっくに終わり、テレビを見ている合間だったと思う。布袋にコーヒーの挽いた豆を入れしっかり閉じて、電気湯沸しポットの中で煮出すのである。砂糖を入れて飲んだこのコーヒーはいつまでも僕の味覚に残っている(僕の記憶では緑の缶、MJBコ...

筆者の個人史

(1)1967年 早稲田の下宿①  大学の一年生の秋に念願の下宿生活を開始した。家庭教師を1件やりながら生活する、という条件で母は折れた、と記憶する。早稲田の裏側にある都電の早稲田駅を越えてさらに北に進むと神田川があり、それを渡ったとこにある古くからある、ぽつぽつと商店があるような住宅街と商店街のあいのこといった街にある、2階建ての、おでん屋の経営する素人下宿であった。2階の3間が下宿用で僕は最初の入居者としてベランダのある南向きの6畳間に入った。2食付で14800円であった。大學の生協でカレーが40から50円の時代である。経営者は旦那が20代後半の遊び人風のお兄さんとその愛人といった様子であった。お兄さんは下宿、おでん屋の経営に乗り出した、家屋敷の相続人、つまり親から一軒の家を相続し商売にのりだしたといった感じである。おかみさんは東北弁らしきなまりのある色白の、しもぶくれした、ちょっと間のぬけたような顔をした、まあ、かわいい女性。やはり20代後半か。  大學から10分の距離だから仲間は来やすかったのであろう。1週間毎晩合計7人の来訪者があったときにはさすがに辟易した。自分が千葉の実家に帰っている間にかってに来て泊まって行く者もいた。ソーミのように彼女を連れてきて,飲み慣れない3人が酔っ払いベランダで吐きまくり、3人で1枚の布団で寝たこともある。オーナーは若い遊び人だから誰が来て泊まろうが気にかけないし、友人が来たときしばしば下からおでんやお銚子をとったものである。彼女が来たとき暗くなって送りに出たときオーナーとたまたま顔を会わすと「あれ、泊まっていかないの」。  コタツと本とコーヒーやお茶用の電気ポットやカップが部屋にあるもののほとんどであった。本をできるだけ読もうとした。レーニンやマルクスなどのマルクス主義ものは当然であったが、いわゆる世界の古典的大思想も少し齧りたかった。キエルケゴールやヤスパースなど分けもわからないままノートをとりつつ読んだ。シモーヌ・ヴィーユがはやりだしたころであり、彼女の作品も齧った。近代経済学はほとんど読まなかった。授業のテキストとしてテスト対策としてのみ読んだ。サミュエルソンの国民所得論などである。小説も同様であった。つまり教養主義的であった。なぜかジイドやマルローなどはほとんど読んだ。すべて早稲田界隈の古本屋で調達した安い古本で。 ...
4  現在、定年は65歳を政策的目標にしている。法的な罰則を伴うものではないので、まだまだ現実のものになってはいないが、これは推し進められて良い。もちろん定年以前の退職も労働者に不利にならないような形で認めての話である。  日本の60歳代の労働力率は70%台である。西洋諸国のそれと比べると断然高い。年金の不十分さ、農業や自営業での家内労働的な労働の機会の多さ、などを割り引いても、高い、といえる数字である。つまり日本では労働すること自体が肯定的に価値と見られている側面があることは大いに注目すべきところである。ドイツのように定年を大いに待ちわびる社会ではないのである。  こうした準高齢者の労働の機会の保障は、もちろん賃金や労働時間などに関してかなり制限されたものになるのはやむをえないであろう。  しかし大きな問題は別のところにある。企業と労働者の一体的な関係をどう見るか、ということである。(続く)